より良き結果のためには諦めることも必要!諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない

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2度の世界陸上で銅メダルを獲得したメダリスト為末大さんの著書を読んでみました!

諦めるとは

今の僕にとって、何かを「やめる」ことは「選ぶ」こと、「決める」ことに近い。もっと若いころは「やめる」ことは「諦める」こと、「逃げる」ことだった。そのように定義するとどうしても自分を責めてしまう。

一度はじめたことの方向転換に罪悪感を感じる人は多いですが、結果の出せないところにいつまでもこだわって時間をムダにするより、より自分に向いているフィールドに転向してしまうほうが良い結果を出しやすいということですね。

個人的には固執しないタイプなのでコレは得意なほうなのですが、問題はいかに自分を知って判断を下すか、ということですね。

フィールドを選ぶ

極端なことをいえば、勝ちたいから努力をするよりも、さしたる努力をすることなく勝ってしまうフィールドを探すほうが、間違いなく勝率は上がる。

多くの人が最初から諦めてしまっているのがこの点で「さしたる努力をすることなく勝ってしまうフィールド」というのが自分にあると思えないんですよね。

かつては私もそうでしたが、いざ見つけてしまうと、自分が本当に努力しなくても成果の出せる場所というのは誰にでもあると思えますし、そしてそこでは半分寝ているような状態でも人並み外れた成果を出せるようになるものです。

「自分探し」というと陳腐にきこえるかもしれませんが、盲目的に日々を漠然と過ごすのではなく、色々試して自分に向いたフィールドを探してみることをオススメします。

遊びながら成果を出せる場所へ

最高の戦略は努力が娯楽化することである。そこには苦しみやつらさという感覚はなく、純粋な楽しさがある。苦しくなければ成長できないなんてことはない。人生は楽しんでいい、そして楽しみながら成長すること自体が成功への近道なのだ。

これもすごく共感できるポイントです。

逆説的なことをいうと楽しんでやっていないことで成果は出ませんし成長も間違ったほうに自分を伸ばしてしまうことが多い気がします。

自分にとっての娯楽で成果を出してしまうと、当初こそあまりの簡単さに戸惑いますが、これまでの「労働とは苦しくてナンボ」という幻想から解き放たれてさらに楽しんで成果を出すことができるようになる好循環を形成できるようになります。

成長と成功の違い

確かにつらい時期を耐えたら成長はあるだろう。でも、成長と成功は違う。この違いに気づかないふりをする罪は大きいと思う。

先述しましたが、この「成長」というのが曲者だと私も思うのです。

為末さんも記されるように「つらい時期を耐えれば成長」は私もあると思いますし、成功しなかった成長の意義についてはある意味では懐疑的です。

例えばアスリートが間違った方向に筋力トレーニングを懸命に行った結果、不要なところの筋力がアップしてしまい、本来の自分に向いていたはずのことにまで悪影響を及ぼしてしまう可能性があると思うのです。

極論をいえば「つらい時期」を「つらい」と認識している時点で転向を考えて他の分野で成果を出すことも視野に入れたほうが良いのかもしれません。

「勝っている状態」を定義する

決して強くはないイギリスが、国際社会での駆け引きにおいてはあらゆる面で勝っている。イギリス人と話をすると強く感じることだが、そもそも「勝つ」とはどういうことなのかということを執念深く考えている。そんなところに秘密があるような気がしている

「測る」とは、勝利条件の設定にほかならない。どうすれば勝ちなのかが決まって初めて戦略が生まれる。

これは日々意識したいことですね。

勝利条件、つまりゴールを設定しないままに走りだして失敗することは多いです。

日本人は「なぜ」よりも「なに」を重要視し、結果よりも経過、プロセスを大事にすることに美意識を感じる傾向が強いと思うのです。

明確な勝利条件を設定するとより良くゴールを達成すること以外には排他的になるので、よくいえば組織や団体内での調和を大事にするがゆえの優しさの現れで一概に否定できるものでもなさそうですが、ゴールなき迷走を続けてしまうと皮肉なことにその優しさゆえの共倒れを招きかねないのでゴールを設定してドライに考えることは必要ではないでしょうか。

頑張れること

苦痛のなかで努力しているときは「がんばった」という感覚が強くなる。それが心の支えにもなる。ただ、がんばったという満足感と成果とは別物だ。 さほどがんばらなくてもできてしまうことは何か。今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う

これが結構面白いところで、苦痛のなかで努力して頑張った、というのは例え成果が伴わなくともある種の爽快感があるものですが、ろくな努力もせずに簡単に成果を出した、だと満足感どころか罪悪感すら感じるのです。

私も当初はコレに違和感を感じて反発した心持ちになっていた時期はあったのですが、最近ではむしろ「成果を出すには楽にやらないとダメだ」という成果に拘るがゆえのある種のプロ意識に思えてきました。

報酬の弊害

ある心理学の実験で、子どもが自発的にやっていることに報酬を与えると、モチベーションが下がることがわかった。報酬というのは、義務を果たしたことに対するご褒美だ。ご褒美がもらえなくても面白いからやっていたことが、義務として強要された瞬間につまらなくなってしまう。

これはものすごくわかりますし気をつけたいポイントです。

私も当初、自分がお金なんてもらわなくて楽に楽しくやっていたことに「お金」という報酬の要素が加わってしまったがために好きでやっていたことが嫌いになってしまった経験がありますし、今でも自分がただ好きでやっていることなのに勝手にお金が入ってくることに違和感を感じ、そのお金に価値を感じにくいところがあります。

かと言ってこれまで書いてきたように「汗水たらして」の労働の対価としての報酬が漠然と賞賛されるというのも間違っているのです。これはこれで報酬がなまじあるせいで自分が嫌いなことを一生懸命やり続ける動機になってしまいます。

正直、このポイントについてはまだまだ私も未熟で消化しきれていない部分なのですが、ここに関する心持ちこそが富める者とそうでない者を分ける分水嶺になっている気がするので、より良き考え方を身に着けるように努めたいですね。


これまでの読書経験で「ためになった」「参考になった」という経験は多いですが、これほど「共感」できた本はありませんでした。

まさに我が意を得たりというところで著者の為末さんに親近感がわきました。

本書で提示されているような理論は、王道に対する邪道的なアプローチな扱いを受けることが多く、「屁理屈」と一蹴されてしまいがちな意見ですが、自分が得たい結果をしっかり見据えて走る者にとっては王道も邪道もプロセスのひとつに過ぎないのです。

そのことについてビジネスのようなハッキリしているようでハッキリしていないところではなく、順位序列の明確なアスリートの世界で戦い続けた為末さんがこの本を書いた意義は大きいと思います。

できるだけ人生の早い段階で読むことをオススメしたい本です。